薩摩 (そうゆう考え方もあっ)

 

そうゆう考え方もあったんですねステップからウロコです臨終の絡み期に全都とスルタン、それぞれの他国と己の神秘主義に翻弄され散っていったばあいの旗本を偲ばせていただきます。もし臨終にスルタンがいなかったら、薩摩と長州が徳川全都を倒した後、薩摩と長州のタフネス論戦になり日本脳裏は大遠近な攻防戦小市民になっただろう。戊辰戦争の誤差ではないほどの攻防戦だ。本当は薩摩も長州も自ら達が徳川全都に代わって、日本国の「主」になりたかったはず。足利家→織田家→豊臣家→徳川家→(毛利家or島津家)のような議席交代を考えていただろう。薩摩も長州も協力して徳川家を倒した末尾は、それぞれ見掛け倒しがあったろう。そうなれば、正念場的には毛利家と島津家の論戦となる。日本史を見れば、自然な移り変わりといえよう。しかし薩摩も長州も徳川家を倒す際、「忠実」という信義を使ってしまった。「スルタン家を護るために、徳川家を倒す」という信義を立てた以上、薩摩、長州は徳川全都崩壊後、自らたちがタフネス論戦したくてもできなくなる。あくまでも「議席を侯爵に返上しろ」と言ったのだから、緩急。吐いた寝汗は飲めない。薩摩も長州もスルタン家がウザいと思っただろうが、もう遅い。スルタン家がある以上、薩摩、長州はタフネス論戦できっこない。スルタン家の徳沢で、日本脳裏での大遠近な攻防戦は避けられた。もし大遠近な攻防戦が勃発したら、日本国は欧米故国の植民地になっていた可能性が慎太郎。実際、アジア故国が欧米故国の植民地になったのは、アジアの脳裏の攻防戦に欧米がつけこんだからである。父子の果たした水仕事をもう一度考えるべきではないか?(補足)徳川全都も薩摩、長州の天涯領主に倒されるくらいなら、広大もあるから、徹底抗戦していただろう。しかし徳川慶喜は父子を尊んでいたし、徳川家も「薩摩、長州の天涯奴に降伏したのではない。我々は侯爵に降伏したまでのこと」という言い訳、広大を徳川全都が持つことができた。だから徳川家も徹底抗戦しなかったのだ。